東京電力福島第一原発事故による放射能汚染問題について、情報発信をしてきた物理学者で東京大学の早野龍五・名誉教授。
その早野氏が県立医大助手(当時)と共同執筆した市民の外部被ばく線量に関する論文に、放射線量の過小評価や市民の個人情報の不正利用などの疑惑が上がっています。
これについて、東大などは調査を開始。早野氏にとっての “物理学者の先輩” にあたる高エネルギー加速器研究機構(KEK)名誉教授の黒川眞一氏は「早野氏の論文には、科学史に残る重大な研究不正につながる可能性がある」と懸念しています。
論文掲載誌にその間違いを指摘し、この問題の真相解明に取り組む黒川氏に、早野論文の問題点をお聞きしました。(聞き手:牧野 佐千子))
(写真は、論文の間違い個所を指摘する黒川さん=つくば市)
ー宮崎・早野論文の重大な誤りとはどんなものですか?
彼らが発表し、国際専門誌『ジャーナル・オブ・レディオロジカル・プロテクション(JRP)』に掲載された論文は2016年12月の “第1論文” と、翌年7月の ”第2論文” があります。
第2論文では、伊達市で最も線量が高い地域に70年間住み続けたとしても、被ばく線量の中央値または平均値は18mSVに満たないなどの分析をしてします。また、この論文の図6を積分したものが図7であるはずが、図7が示す値は46%しかない(本来100%のはず)というおかしな点が見られます。
さらに同じ論文中でも、言葉の定義が変わっていたり、避難した対象者を含んでいたりと、様々な問題が見られます。これについてJPRに「Letter to the Editor」という形式の批判論文を投稿したところ、早野氏は、私の10個の指摘には全く答えませんでした。
早野氏は、被ばく線量を実際の3分の1に過小評価していたとして、この部分はJPRに修正を申し入れました。修正すると、中央値は約60mSVになるとみられます。私は、3分の1ではなく、ほぼ半分であると言っているので、指摘と矛盾しています。JPRは、この誤りが論文の主要な結論に影響を及ぼす可能性があるとの懸念を表明しています。
ー同意の得られていない市民の被ばく線量データを、論文に無断に使用していたという指摘もありましたね。
事故後に伊達市は線量計を全市民に配り、被ばくデータを測定しました。そのうち、約半数弱にあたる約2万7,000人分のデータが、本人の同意を得ないまま提供され、使われています。
人体実験を防止するために定められている「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」というものがあります。学術研究や社会的福利が、研究対象者の人権よりも優先されてはならないと規定しています。
宮崎早野論文は、この倫理指針に多くの点で反しており、研究対象者である伊達市民の人権を侵害してしまっている。「ミス」「故意ではない」というと小さなことのように思えてしまうかもしれませんが、基本的人権を守るということは、どんな小さな人権侵害も許してはいけないということです。
この件についてもJPRは懸念を表明しています。
ー本人の気づかぬ間にデータを使われているというのは、重大な人権侵害につながりますね。このところSNS上の個人情報が流出する問題も起きていますが、そういった問題にもつながりそうです。
早野氏の基本的な立場として、原発の賛否については、日本のメディアに対しては「賛成・反対を言う立場にない」と明らかにしていませんが、笹川財団のアジアのジャーナリストを集めたシンポジウムで、「原発は安価で安全」と英語では発言しているのです。
早野氏は、これまで責任ある立場で発言してきて、この論文問題も注目されてきています。数々の誤りに、「故意ではない」という説明は、もう無理があるのではと。たとえ「故意ではないから仕方なかった」として、間違いをすべて認めたとすると、論理構造も結論も成り立たない。
また、研究計画段階では外部被ばく線量と内部被ばく線量の相関関係についての第3論文も出すはずだったのに、「予想した結果通りなので発表しないことにした」としています。これも明白な倫理違反なのです。計画通りに進まなくとも、結果を必ず発表しろ、ということになっていますから。
言葉を正しく使い、主張には根拠を示すという、科学論文が成り立つ基本的な条件がすべて崩れるようなことを早野氏はやっているのです。これは重大な問題です。
ー福島原発の放射能汚染をめぐっては、全国で裁判が行われています。訴訟資料にも影響がありますか?
裁判を行う上で、原発事故で実際にどのくらいの被害があったのかを示すには、事故由来の放射線量などを訴訟資料として提出する必要があります。これらの資料を作成するのは、研究者など専門家の仕事ですね。
このような疑惑の多い宮崎・早野論文を、原子力規制委員会の諮問機関でもある放射線審議会は、放射線防護の参考資料としていったん採用しましたが、今年の1月に取り下げました。
科学が政治に利用されるのはあってはならない。原爆の開発など、歴史上、政治利用されてきた例は多いです。今はその状況に近いと思っています。この問題は、科学の信頼に関わる重要な問題なのです。
ー今後事態はどう展開していくのでしょう?
現在、東大などが、論文のデータ解析方法や執筆された過程などについて調査しています。数か月後にはその結果が出ると思います。なぜ、このような誤りが起きたのか、徹底的に調査をしなければ、今度は「東京大学」の信頼にも関わることになると思いますよ。
「科学」を成り立たせるルールというものがあり、そのルールに全く従わない論文を東大物理学科の教授(執筆時、今は名誉教授)が学術誌に投稿し、それが査読を通って刊行されている。そしてその論文を批判する論文に著者が一切の応答をしていないこと。これが不正と認定されないならば、「科学」そのものがダメになってしまいます。
私はいち科学者として、このようなことを黙って看過することはできず、こうして可能な限りの検証を行っているのです。
2本の宮崎・早野論文と、JPR誌による「懸念」
第1論文
https://doi.org/10.1088/1361-6498/37/1/1
第2論文
https://doi.org/10.1088/1361-6498/aa6094
【黒川眞一(くろかわ・しんいち) 高エネルギー加速器研究機構名誉教授】
1945年生まれ。68年東京大学物理学科卒、73年同大学理学系研究科物理学専攻を単位取得退学。理学博士。高エネルギー物理学研究所(現・高エネルギー加速器研究機構)助手、同助教授、同教授を経て、2009年に定年退職。11年にヨーロッパ物理学会より Rolf Wideroe賞、12年に中国科学院国際科技合作奨受賞など。専門は加速器物理学。